タイでロングステイ なじみ客のために店を再開

タイでロングステイ

 今年で在タイ19年目となる大六野(だいろくの)義男さん(56)は、板前歴37年のベテランで、日本とタイでの板前歴がちょうど同じくらいの年数となった。バンコクで創業15年目になる日本料理店「網元」の店主で、「ここまでよくやってきた」としみじみ振り返る。


 福岡県出身。炭鉱夫の父を持ち、5人きょうだいの4番目として産まれた。時はちょうど、戦後の復興期。映画「三丁目の夕日」の風景そのもの。


 どの家庭でも父親がちゃぶ台をひっくり返す風景が見られ、近所同士でおかずのおすそ分けや米の貸し借りなどが日常的に行われていた。各家庭の小さい子供の面倒を見合ったりと地域全体が家族のようだったという。


 大六野さんが10歳の時、家に白黒の中古テレビが来て、力道山の活躍を夢中になって観た。両親は共稼ぎだったので、成長盛りの子供たちはいつも腹をすかせていた。そこで、当時小学5年だった大六野さんは、母親の味を思い出しながら豚汁、そして当時はハイカラだったマカロニサラダを作ってみた。「家族がほめてくれてね。達成感があった」と懐かしむ。家が貧しかったので、早く親を助けたいと、中学卒業後に授業料がかからない門司海員学校へ進学。卒業後は船会社に就職し、機関員として働いた。18歳で給料が手取り20万円と当時としては高級取りで、親にも仕送りをしていた。


 船に乗って4年経ったころ、「本当に自分がやりたい仕事をやりたい」と今後の人生を見据えて思い立った時、心の奥底にあったのは、幼い時に経験した料理の楽しさだった。人生は一度しかないと、思い切って飛び込み、生活は一転し、4畳半に住みながら、給料6万円からのスタート。関西と九州を中心に、ステーキ屋、高級レストラン、餃子専門店、デパートのレストラン…と数年ごとに職場を変えながら、経験を積んでいった。元来の負けず嫌いの性格から、休憩時間でもイモの皮をむいたりオムレツを作ったりと鍛錬を積み、料理は目で見て覚えた。


 30歳の時に転機が訪れた。それまでは洋食や中華の店で主に働いていたが、日本食の良さに改めて気付いた。「日本食ができれば、働き口の選択の幅が広がる」。あんこう料理の専門店や寿司割烹、フグ、ウナギの店…と技術を磨いていき、給料もどんどん上がっていった。


 そんな折、板前仲間から、タイのサービスアパート内のレストランでの仕事を紹介された。日本の生産拠点がどんどんタイを含むアジアに広がっている最中のことだった。その5年後、念願の自分の店をスクムビット・ソイ18にオープン。最盛期には板前7人、女性スタッフ15人を抱え、客も日々満席の盛況ぶりだった。


 その後、バンコクには急激に日本食店が立ち並びはじめ、近くにあったゴルフの練習場も閉まると、客足は徐々に遠のいていった。この時期、自分を省みる日々が続き、「人と運に支えられてきたことに改めて気付いた」と言う。お店の壁には、「負けて勝つ」「苦しい時こそ未来への道」…と、自身へ向けた言葉が掲げられている。いったん店を閉めたものの、馴染み客に再開を望まれ、約半年ぶり、昨年2月に店を再びオープン。


 市場を回っての素材選びに始まり、仕込み、料理に至るまでを担う大六野さん。コシの強い手打ちうどん、皮から手作りのギョウザ、お手製デミグラスソースがかかったハンバーグ…。日本人なら誰もがホッとする故郷の味を、リーズナブルな値段で提供し続けている。37年間培ってきた料理への思いを一品一品に込め、「今の方が(最盛期よりも)達成感があるね」と笑う。


 現在、店には、タイ人の奥さんとともに立ち、高校1年になる長女も手伝ってくれている。今後ますます発展が予想されるミャンマーでの日本食店経営の話を持ちかけられることもあるが、大六野さんは「家族の絆を大切に、このままタイにいるつもり」という。


 両親はすでに他界し、将来的にタイに骨を埋める覚悟だ。今後は「今までの経験を生かし、日本食店をこれから出す人、日本食店を経営していて、今行き詰っている人にアドバイスをし、手伝いたい」。

 

 ロングステイのビザ等に関しては タイ自由ランド事業部  ℡081-566-9015 まで。

 

2012年2月20日 タイ自由ランド掲載

 

 

 

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